Is nearly transparent and infinitely

観察したものについてのつぶやき

朝、夜明け、起きる

もう何年も朝起きていない。実際には朝起きることはあるし、起きたときが朝ならいつも朝起きていることになるのだが、体感として起きている感覚がない。この文章を書いている今も、夜明け前の4時53分だ。少なくとも1ヶ月以上、まともに朝、起きることなんて、14歳ころから一度もないことは確実に思える。私は22歳になった。あと数ヶ月で23歳になる。無機質な数字にはなにも意味はないだろうが、実質的な生の内容にもたいして意味づけはなされていない。無機質な数字と同様に無機質なデジタルチックな時の流れのみが、22という数字には含まれている。

 

ただ、それだけだ。

 

一日をどう使おうが、そのひとの自由だ。個々人に与えられた生来の権利であるはずだ。しかし実際のところ、自由に使うことが即ちその人の自由な望みであるとは限らない。いやおそらく、ほとんどそうではない。私は一日中スマホでネットニュースをにらめっこすることやベットから動かず携帯ゲームをすることを望んだことはない。少なくとも思考的な営みにおいては。高校生の休日がたいていどのようなものであったか、どういうものであるべきかなど、私は知らなかった。もしくは知ってはいても、どうすることもできなかった。

 

私は気がついたとき、なにものでもなかった。誰しもがなにものでもないし、なにものにもなれないのかもしれないが、少なくとも社会的なレベルにおいてなにものか、にはなっている。ニートフリーターもなにものである。

20歳で大学生になった。なにものかになれる気がした。そう思うことにつとめた。本当はわかっているのに、答えらしきものから必死で逃げるように、考えないように、目の前に虚像を並べた。

 

そしてまたなにものにもなれなかった。

朝、起きなければ、永遠に夜はこない。