Is nearly transparent and infinitely

観察したものについてのつぶやき

価値

たとえば大学の名前。

自分のことを話すとき、私は必ず大学の名前を出す。なかなか出す機会がないとそわそわして話しに入れないことがある。そういう行為を私は非常に惨めで不快なものだと思っているが、口にだしてしまう。スネ夫のことをのび太が見てなんて恥ずかしい奴なんだ、と言うロジックに近い。

 

子供のころから、ずっと自分だけ浮いているような感覚がしていた。正確にいえば、客観的な視点から見て私は浮いていた。自分には誰もよってこない、話しかけてこない。もちろん自発性の乏しさから生じる卑屈な理屈であるが、事実として隔離されているような気がしていた。

 

どうして自分にだけ、人が寄り付かないのだろう、話しかけてこないのだろう。自分には価値がないのだろうか。価値がないから、人は関わりをもとうとしないのだろうか。

確かに周囲を周到に観察してみると、人気者には価値があるように思われた。運動神経が良い、話していておもしろい、かわいい、明るい、友達が多い。そもそも人気者それ自体にも価値がある。意識的か無意識的かはあるにせよ、何かしらのメリットを感じない限り、人は他者と関わりを持とうとしない、そんな風に考えるようになった。もちろんそんなこと言語化して脳内で考えていたわけもなく、あくまで無意識的にである。

 

だから私は良い大学にいこうとした。良い大学にいって、有名人になって、人々から価値あるものとして認められたいと願った。周りの人間のことなどできるだけ考えず、自分の自己承認欲求を満たすため、自己顕示欲の塊と化していった。

 

ある日気がついた。

 

そのロジックの愚かさに。そんなことしても、私には友達はできないし、周囲のひとに認められることはないと。決して幸せにはなれないと。

 

どんなに無価値に見えるひとにも、そのひとを認めるひとはいて、友人に恵まれ、幸せに過ごしていること。

友達と談笑し、遊び、日々を楽しくいきること以上に価値のあることなど一体どこにあるのだろうか。そんな単純なことを多くの人は生まれながらに知っている。そして実践している。私はたいていの中学生や小学生が知っていることを、20歳を過ぎるまで知らなかった。もしくは忘れていた。視野の狭いものが最も醜いと感じていたのに、自分が最も醜いことは気づかずに過ごしていた。

 

ではどうすればいいのか。

 

そうやってもうかれこれ2年がたった。

 

もうブランド大学という価値は手に入れている。

 

私は今、有名人になろうとしている。

 

もう一度同じことを繰り返そうとしている。

 

反芻し、推敲し、反芻し、その繰り返しのループで生活は成り立っている。